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"菜翁が旨"さんのほほ~ぇむ健康ペ~ジ

"菜翁が旨"さんのほほ~ぇむ健康ペ~ジ

黄金色の見事なウンコが口元にプカプカと…

昨日は土用の入り。

そして27日は土用の丑。

今年もまた、うなぎが高そうである。

この頃になると、いつも子供の頃にたらふく食べた、海から溯上した正真正銘の天然うなぎのことを思い出す。

まず、小学生は、一級河川の揖保川には入れないので、水泳は農水路で男子も女子も一緒になって泳いでいた。

時には、川上で泳いでいたヤツの黄金色のウンコがプカプカと口元に流れてくるのに出くわすことがある。

まことに、見事な黄金色をしたやつに出くわした時には、一同、声も出さずに、流れ行くヤツに見とれてしまうことがある。

あぁ~っ。バナナを食いたいなぁ~、と大きな声で誰かが叫ぶのを聞いてやっとみんなが、我にかえった。

この頃のバナナは高級品で、重病にでもならなければ食わせてもらえなかったものである。

時には、三保の松原の天女よろしく、ゴムが切れてパンツを流す女の子もいた。

今の時代なら、このパンツは直ぐに、オークションにかけられるであろう。

さて、うなぎの話にもどそう。

小学生は、『つけばり』と呼ばれていた、10~15センチくらいの棒にタコ糸をくくりつけて、その先に重り用の石をくくりつけてさらにその先に大きな針を結びつけて、その針に、ミミズを刺して、夕方、農水路の石垣に差し込んでおく。

翌朝、東の空が白じんで来るころに、そのつけ張りを引き揚げに行く。

ふつうは、ギンギンとか、ドシンコとかなまずが食いついている。

運がよければおおきなウナギもくいついていることがある。

ただ、うなぎは、逃げようとしてもだえにもだえて糸に巻き巻きになっていることが多かった。

まだ生きているうなぎをその糸じゃら外すのはなかなか大変であった。

すでに死んでいるうなぎでも、勿論大変な作業であった。

早く帰ってうなぎをさばいて焼いて喰いたい一心で、必死になって外していた。

よほどの事がなければ、糸を切り捨てるようなことはしなかった。

新しいつけ張りを作る手間や費用と、ウナギが巻きついた糸をほぐす手間を、子供ながらに、考えていたのである。

うなぎは、適当なまな板様の板の上で、うなぎの頭にキリで穴を開けて金槌で釘を打ち付けて、出刃包丁で骨に添って背を裂いて、こんろに網を乗せて炭火で焼いて、醤油の付け焼きにしていた。

勿論、醤油は二度付けである。

これこそ、正真正銘の天然うなぎの炭火焼であった。

今のようにうなぎというよりたれを味わうようなバカげたかば焼ではなかった。

うなぎのウマ味をしっかりと味わっていたのである。

朝のおかずにして、昼の弁当のおかずにして、そして夜のおかずにもしていた。

今のように、蒸してふやかしたようなうなぎとは、旨さがちがう。

中学になると、一級河川で泳いでもよいことになるので、うなぎは籠づけで獲っていた。

籠では、大量に獲れるし、その上、うなぎが傷まないので、大きなやつは、町の魚屋に持って行くと結構、良い値で売れる。

結構、うま味の有る小遣い儲けができたものであった。

その上、家族一同まで、朝昼晩、三食うなぎざんまいでもあった。

ミミズに小便をかけるとチンポコが腫れると言われていたが、ミミズ様のお蔭で美味いうなぎを食べさせて頂いているので、小便をかけるなどとは、不届き千万であった。

間違って小便をかけたときなどは、きれいに水で洗って、日陰の土の中に戻していたものである。

そして、自分のチンポコにお尻ペンペンしていたくらいである。

で、夏の土用の冬支度の話であるが、ドクダミは、花の咲いているうちに、干して刻んで、新聞紙で小さな袋を作って、そこに詰めて、お米の袋に入れておいた。

今は、紫蘇を洗って干して、刻んで、どくだみと同じように新聞紙の袋に入れて、お米の袋に入れて保存しておいて、主に紫蘇ジュースを作るのに用いる。

ドクダミは、お茶や湯船に入れて薬草風呂にもする。

紫蘇は、紫蘇ジュースや紫蘇茶やこれも薬草風呂にもしている。

こんなことをしながら、イソップのアリとキリギリスの話を思い出した。

この話は、場当たり的な日々を過ごすのではなく、先を考えた日々を過ごすことの大切さをこそ、言わんとしているのかな、と、思ってもみた。

ネットゲームなども、ただ単にゲームに熱中するだけか、ゲームをしながらいろんなことを考え巡らすか、で、人生、大きく左右されるのかも・・・


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